楽しむという目標


最近本を読めなくなっていました。
読めなくなった本は、小説やエッセイなど余暇を楽しむために購入した本ばかりです。

本を読んでいると、頭の片隅で「他の人は、この時間にも頑張っている」
「無駄に時間を過ごしていないか?」などの想いがふつふつと湧いてきて、読む気がうせていました。
生活を楽しむ時間が少なくなったせいでしょうか。
趣味に関する事も苦痛になる時もありました。

その本が読めなくなっていった経緯の一つに「もっと、役に立つことを」「もっと効率よく」
という思い込みがありました。

本を読むなら役立つ情報を、携帯を見るなら何が今の世相を反映しているのか?
その結果、無駄にザッピングしたり、本も途中で読めなくなったりとても飽きっぽくなりました。
一言でいうと退屈に感じてしまいようになりました。

趣味の散歩をしても風景を楽しめないし、食事は栄養補給に。
これは、楽しくないです。
気分が落ち込み、いろいろな効率が悪くなります。
そして、またその効率の悪さを自覚して落ち込む。という悪循環に陥りました。

そうなると、何もかもがダラダラ過ごしているように感じてしまいます。
退屈でつまらない感じです。

そこからなかなか脱出することができませんでしたが、
カウンセリング中にある一言が聞いてから、しばらくして回復してきました。
その一言が「楽しむという目標ではだめなの?」でした。


楽しんではいけないという思い込み



最初「楽しむ」という目標を聞いたとき、あまりいい印象ではありませんでした。


本を読んだり、勉強など何か行動を起こすとき
「目標を持ちなさい」とよく言われますし、
学校でも会社でもそういった考えは推奨されます。

その目標に「楽しむ」なんて、不謹慎だとか「ふざけている」という
考えが浮かびましたが、その奥には大人は楽しむまず、まじめに日々をこなしている。
という思い込みがありました。

でも、よくよく考えてみると笑ったり、茶化したり、楽しんでいる大人は沢山います。
楽しみながら物事を進めている大人も数多くいます。
そういった大人たちを意識していなかったんだと気づくと、「楽しむ」ということが
自分の中で大きな意味を持ちだします。

試しに「Youtube動画」を楽しむという目的で見ます。
5分という時間ですが、なんとなく楽しく心がすっきりします。
次に趣味のカメラです。

※隅田川沿い

少し、楽しめるようになっていました。
楽しいという気持ちが戻ってきた感じです。

現在、緊急事態宣言中であることもあり、様々な行動が制限されています。
外出したり、移動したりするのもなんとなくいけない感じがしまいます。
心の中が真面目な人ほど、こうした制限を感じ、いろいろな不具合を心が受け取ることもあります。

他人が楽しんでいるのを見たり、聞いたりすると「不謹慎」な感じがしてしまうこともあります。
行動は真面目でもこころは楽しんでもいいはずです。
自分のこころまで制限して、「感じたり」「楽しむこと」を制限する必要はありません。

「今という時間」や「出来事」を楽しむというのも立派な目標の一つで、
時間を大切にする考え方の側面でもあります。