感情をキャッチする


何か出来事があった時、感情は自然に湧き上がるように出来ています。
それは、何代もかけて身につけてきた人間の本能ともいえる部分とも言えます。

例えば、道路を渡るときに向こうから車が来ていたら、
渡るのを躊躇すると思います。
幼い頃からの経験もあり、車に当たると怪我をすることを知っていますし、
大きなものがスピードを出して目の前を通ると怖いというのは本能的に感じるとおもいます。
だから、身を護るためにも道路を渡るときに飛び出さないようにしていると思います。

他人から嫌なことをされたときに、自分を守るためにも怒りの感情がわくのは自然なのですが、
「あの人は自分のことを知らないからだ」とか「嫌なことをするのは、想像力が足りないからだ」とか
その行為に意味をつけ、感情を遠くにやることもあると思います。
これは幼少期の教育で「感情を人にぶつけてはいけません」というものが、影響しているような気がします。
感情をぶつけることと、感じることは全く違うのですが、
なぜか感情を使って自分の思いをわからせようと操作する方も見受けられます。

悲しみの感情は、過去の出来事を水に流し、そこから新しい行動を学ぶためにも必要なものですが、
頭で出来事を理解しようとしたり、悲しみを受け入れてもらう経験の少なさからか、
過去のことにずっと拘ってしまったり、相手に負けた感じがするので、攻撃したくなったり、否定したくなったり。
いつまでも気になったりします。
例としては、
失恋にいつまでも拘ったり、亡くなった方のことがいつまでも忘れられないのも、
悲しみが受け入れられないから起きる一つの側面かもしれません。
悲しみは感じることで、過去の体験を過去の出来事として、処理していくことが出来るようになります。

他にも本能的に「寂しさ」「嫌」「喜び」なども感じるといわれていますが、
それらの感情を抑えると「寂しさ」は、何かに依存したくなったり、
「嫌」でしたら、自分を責めたり、その人と会うことが嫌になったり、
本当は人の中にも好きな部分と嫌な部分があっても普通なのですが、
嫌を抑えると、全部嫌もしくは全部好きでないといけない。というような思い込みになったりします。

「喜び」は抑えると人生の彩を無くし、何もかもがつらくなります。
楽しいことがあっても、つらい部分に目が向いてしまいます。

冒頭に感情は本能的に感じるとお話をしました。
でも、現在はSNSや仕事、交友関係、子育て、などで忙しすぎて、
自分の感情に向き合う時間が少なくなっています。

いきなり感情を感じるといっても最初は慣れていないと難しいと思います。
なので、今「何を感じているか」5秒か10秒ほど自分が感じているものをキャッチする練習をしてみませんか?

わかりやすく、「ご飯を食べたら美味しい」は「喜び」かもしれません。
上司に報告に行くときに体がこわばるのは「怖い」かもしれません。
一人になってほっとしたら「安心」かもしれないですし、
それまで「怖さ」があって緊張していたのかもしれません。
自分を責める感情がわいてきたときは本当はその人に「怒り」や「嫌」を感じているのかもしれません。
現実を忘れるほどSNSやお酒、ギャンブルにはまっているなら「寂しい」のかもしれないです。
もしかしたら、感情自体を感じないようにぐっと抑えているもかもしれません。

今感じていることをキャッチする練習を繰り返し、上手になってくると
周りがよく見えるようになってきます。
気づくことも増えてきます。

簡単に人生の彩に気づき、今までよりも濃厚な人生を歩みだしていることに
気づくかもしれません。