自己批判に気づく


自分を律していかないと、迷惑をかけたり、現状から後退する感覚や、
プレッシャーをかけないと怠けると思い込んでいたり、人にわかりやすく話をしないとなど、
本人にとっては当然なことでも、その些細なことがたくさん集まって
自分にプレッシャーをかけていることがあります。

少なくとも私の場合はよくあります。
正確にはよくありました。
例えば、「今日も何もしていない」「もっとできたはず」
何かできていれば「もっと効率よく」「明日もできるかな」
などと、何をしても批判的で、またそうしていないといけない気もしていました。

自己批判が自分を前に進ませる気もしていましたし、
社会から落ちこぼれないための努力の源のような気もしていました。

これ、仕事以外の部分でもずっと自分に圧力をかけている状態で、とても疲れます。
人の優しい言葉も、次回も同じように言ってもらうためや、
喜んでほしくて、期待に応えたくて自分に努力を強います。

本来ならばこうした自己批判という努力をしなくても、やれることはたくさんあるし、
喜んでもらう手段もたくさんあります。
同じ手段でなくてもいいので、自由度も増します。

むしろこの自己批判を強くすることで、一日に使えるエネルギーや時間を消耗して
何もできなくなることもあります。
思考レベルでは「常に批判という仕事をしている」状態です。
自分にプレッシャーをかけるループから抜け出せない状態ですね。
これ抜け出せないと思い込んでいました。

でも、本能以外の思い込みは何らかの原体験があり、その原体験をもとに
思い込みをつくっています。
※禁止令決断という考え方です。

この自己批判の大本の体験ですが、
私の場合本当に幼い頃に一生懸命頑張っていたことを笑われた経験から、
人生のいたるところでにじみ出ていました。

2歳や3歳の幼子が、何かを一生懸命していて、周りの大人が笑う。(この場合本人は嘲笑されているが近いです)
周りから見るとほほえましい一場面ですが、
何度も繰り返されるとその子は恥の感覚を覚えます。
次は笑われないように頑張りますが、笑われる(嘲笑される)都度にその恥の感覚に堪えないといけません。
本当は「笑うな」って怒りたいのですが、怒るとそれも馬鹿にされる。

そういった周りの反応に対して自分は批判される存在だと思い込み。
笑われないように白い歯を見せないように、頑張る。
自分を律する努力する。それを24時間ずっと見張っている。
とても疲れます。書いていても疲れます。

この思い込みは交流分析では「正気であるな」という思い込みに分類されます。
幼い頃に心が傷ついた経験からもう傷つきを体験しないように人に批判的になったり、
報復的に自分もしくは他人を憎む。
名前も強烈ですが、その消費エネルギーも大きく、自分を疲弊させます。

こうした行動パターンを意識しなくても当たり前のようにしていますから、
解決できるとも思わないし、
むしろ、自己を高めるためには必要だと思い、しないと自分が怠けると思い込んでしまう。

それはそれで、生き方としてはありだと思います。
その生き方を批判する必要もないし、今までそれでうまくいった生き方です。
無理してその手段を手放す必要性を感じる必要もないと思います。

でも、少し覚えていてほしいのは、その思い込みを手放しても
周りから人はいなくならないし、批判にエネルギーを使わない分体の力が抜けるし、
人の好意を素直に受けても、何も起きないし、うれしさが心にしみます。

もしデメリットがあるとしたら、
最初の数日から数週間は、心が動いてうれし涙が出る時があるので、ティッシュの消費量が増える
可能性があること。
人に対して「好き」や「大切にしたい」が増えるので今までより、白い歯を見せたり、許す気持ちが自然とわく可能性があること、
などがあります。

この場合でも、批判する思考はわいてきますが、
前の不健全な自己批判ではありませんので、
「総ての人にわかりやすく」「みんなに好かれる」など実現不可能なものではなく
「必要な人に理解してもらうために、どう伝えるか」「大切な人に対して、好きな気持ちを伝えるために何をしていけばいいか。」と現実的な行動をとるために何をすればいいのか。と考えられるようになります。

人生は有限なので、大切な人にエネルギーを注ぎたいものです。
もし、何かのプレッシャーがかかって一時的に元に戻る感覚があっても、
完全に元に戻るのではなく、
解決した分だけ、先に進めるのもいい部分の一つです。